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2017年8月24日 (木)

竹帚

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2017年8月23日 (水)

とんぼ

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2017年8月15日 (火)

切株

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2017年8月14日 (月)

夏の緑

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2017年8月10日 (木)

しゃくなげ

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2017年8月 9日 (水)

八月の緑

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2017年8月 8日 (火)

紫陽花

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2017年8月 7日 (月)

樹の幹とノコギリ跡

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2017年8月 4日 (金)

ウイスキー

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2017年8月 3日 (木)

夏の海

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2017年8月 2日 (水)

夏の海

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2017年8月 1日 (火)

夏の海

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2017年7月31日 (月)

夏の海

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2017年7月28日 (金)

夏の海

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2017年7月27日 (木)

夏の海

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2017年7月26日 (水)

夏の海

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2017年7月25日 (火)

夏の海

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2017年7月21日 (金)

日日草

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2017年7月20日 (木)

街の風景

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2017年7月19日 (水)

アップルミント

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2017年7月18日 (火)

ビオラ

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2017年7月17日 (月)

さくらんぼ

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2017年7月14日 (金)

さくらんぼ

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2017年7月13日 (木)

えぞもみじ

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2017年7月12日 (水)

赤い花

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2017年7月11日 (火)

黒い花

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2017年7月10日 (月)

ラベンダー

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2017年7月 6日 (木)

摘芯後のアップルミント

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2017年7月 4日 (火)

モンステラ

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2017年7月 3日 (月)

ルッコラの花

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2017年6月30日 (金)

アップルミント

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2017年6月29日 (木)

大きいバジルと小さいバジル

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2017年6月28日 (水)

リーガーベコニア

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2017年6月27日 (火)

ピンク・ラベンダー

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2017年6月26日 (月)

バジル

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2017年6月23日 (金)

白樺

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2017年6月22日 (木)

あるソフトカバーの本のページ

Toshihiko Izutsu: "Toward a Philosophy of Zen Buddhism" (1982) のあるページを写真撮影(引用)。"The emergence of language out of the Zen awareness of reality may ontologically be described as an event of the self-articulation of the non-articulation. Thus Silence turns into language." が、この本の内容骨子。Articulationに対応する日本語は、著者によると「文節(化)」。「無文節なものが自己分節する。沈黙が言語になる。」 「文節」は、仏教用語の「分別(ふんべつ)」と同義だが、「文節」のほうが哲学的な香りが強い。

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2017年6月21日 (水)

Janis Joplin & Southern Comfort

写真は「ジャニス - ブルースに死す」(晶文社 1977年)という本より編集引用。サザン・カンフォート (Southern Comfort) は19世紀の終わりころに米国南部で生まれたリキュール。テキサス生まれの彼女にとっては地酒です。リキュールなのでとても甘いのですが(ウイスキー好きがバーボンと勘違いして買うとひどい目に合った気分になる)、彼女はステージのあとや休憩時間に小瓶からそのまま飲んでいたのでしょう。

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2017年6月20日 (火)

午後の影

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2017年6月19日 (月)

ビオラ

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2017年6月16日 (金)

楡(にれ)

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2017年6月15日 (木)

楡(にれ)

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2017年6月14日 (水)

葡萄パン

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2017年6月13日 (火)

ビンカミノール

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2017年6月12日 (月)

ボケ

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2017年6月 9日 (金)

「・・・の如し(ごとし)」

仏教という絶対者を想定しない形而上学的な宗教は、「空(くう)」を軸に、世界を次のような構造でとらえようとします。

(一) 「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界、対象が言葉によって切り刻まれた文節的な世界」
(二) 「(途中の悟りの段階で見えてくる)そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な世界、あるいは区分や区画が発生する前の未文節的な世界、空の世界」
(三) 「(悟りがさらに進んだ人たちが住む)非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる、区分と文節の世界、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」

(三)は見かけは(一)とまったく同じです。(一)から(二)を経由して(三)へと往還した人たちだけが同じ見かけの奥にある違いを知っている。

以下に十二世紀に生きた中国の禅僧と十三世紀の日本の禅僧の言葉を並べてみます(後者は前者の本歌取り的な立場に位置している)。

『水清(きよく)して底(てい)に徹す、魚(うお)の行くこと遅遅(ちち)たり
 空闊(ひろく)して涯(はて)しなし、鳥飛んで杳杳(ようよう)たり。』

『水清(きよ)くして地に徹す、魚行(い)いて魚に似たり。
 空闊(ひろ)くして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し。』

どちらの表現にも引きつけられます。

後者に引かれるのは、悟り(空)の世界と日常の世界、無分節な世界と分節された世界が二重写し的にクロスオーバーされており(魚行いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し)、クロスオーバーされた世界が持つ透明感に凄みがあるからです。前者に引かれるのは、「似たり」や「如し」のような修辞を使わなくても、無文節な世界と文節化された世界のクロスオーバー状態は厳としてそこにあり、その状況の被写界深度がとても深いからです。

でも、どちらが好きかと云われたら、ぼくは後者の凄みのほうに傾きます。

2017年6月 8日 (木)

「正法眼蔵」のなかの「われ」

「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」のような著作では、キーワード的な用語の定義はゆるやかであり、固定的ではありません。読者は、普通、同じ著作物の中ではある用語が同じ意味を担い続けることを期待しますが(なぜなら、そうでないと読みにくいし、通常はそういう約束事が書き手と読み手の間に成立していると思っているので)、道元の「正法眼蔵」は必ずしもそういう具合に進んでくれません。議論の文脈や話題が変われば、その用語の意味合いがドラスティックに遷移します。

「正法眼蔵」は「空(くう)」についての形而上学的な著作なので、そこに描かれた世界は「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界・文節的な世界」「そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な(空の)世界」そして「非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる(戻ってくるしかない)、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」という(三層構造のような)構造になっています。(「文節」や「非文節」といった考え方や用語は井筒俊彦の「意識と本質」や「Toward a Philosophy of Zen Buddhism」から)

そういう世界の見え方、あるいは、世界と自分とのそういう三重の関係性を、中国、宋時代のある禅僧(青原惟信)は平明な日常用語で次のように述懐しました。

「上堂して言った,わしは三十年前,まだ禅に參ずる以前,山を見れば山であり,川を見れば川であった。のちになって親しく善知識にお目にかかり,入り口が見つかった時,山を見ても山でなくなり,川を見ても川でなくなった。今は落ちつく場所が得られて,前と同じく,山を見ればただ山であるだけ,川を見ればただ川であるだけだ。諸君,この三種の見かたは,同じか別か。はっきりと区別がつけられる者がいたら,わしと出逢ったと認めよう。」(「嘉泰普灯録」、訳文は衣川賢次著「感興のことば」から引用)

だから「正法眼蔵」に登場する「われ」も、

・「外界と内部をともに二元論的に区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」
・「主客の区分や固定的な実体の存在しない無文節な(狭義の)空の世界におけるわれ」
・「無文節な空や無の世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した(広義の空の)世界に住んでいるわれ」

の三つの衣装を文脈や状況に応じて纏うことになります。

「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻の冒頭には意味合いの異なる二つの「われ」が、最初は明示的に、つづいてもうひとつは非明示的に現れます。

「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。・・・・しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」

「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。」の「われ」は明示的な「われ」で、「外界と内部をともに区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」です。だから、そういう「われ」にとらわれない世界では、二元論的な対立概念であるところの迷いも悟りも、生も滅もともに存在しない。二つの区分そのものがない。

「しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」(そうではあっても、きれいな花が散ってしまうのは惜しいし、雑草が繁茂してくるのを見るのは嫌いだ)と感じる(明示的でない)「われ」は「無文節な世界を経て再び分節化した世界に住んでいるわれ」です。しかし、そういう空や無を経た「われ」でも分節化した日常では花を惜しみ雑草を嫌う。

「われ」はそこにとどまりません。「有時(ゆうじ、ないし、うじ)」という巻に登場する『われ』は、また別のニュアンスを持っています。

「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいるわれ」には違いないのだけれど、文節的な「われ」がどうも強く匂うようです。

ぼくたちが「世界」や「われ」という言葉と出会ったときには、ぼくたちのなかで世界が分節化していても分節化していなくても、存在論的な意味合いでの「世界」や「われ」というものがまず頭に浮かびます。時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」というのはどうも後回しになる。時間としての「世界」、時間としての「われ」というものには、ぼくたちはなじみが薄い。ぼくたちの成長過程で刷り込まれることになっているものの一つがアイデンティティーや自我の確立ですが、そういう場合のアイデンティティーや自我とは存在論的なそれのことです。

だから、「われを排列(はいれつ)しおきて尽界(じんかい)とせり、この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ)を時時(じじ)なりと「しょ見」すべし。物物(もつもつ)の相礙(そうげ)せざるは時時の相礙せざるがごとし。・・・・われを排列して、われこれを見るなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。」といった一文を前にすると、ぼくたちは、時間論的な「われ」の出現でどうにも落ち着かない。

ぼくたちをもっと落ち着かせなくさせるのは、この一節における文節的な「われ」の香りの強さです。「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいる『われ』」には違いないのだけれど、その『われ』のなかからどうしても文節的な「われ」が強く匂いだしてくるように感じられます。ぼくには、これは道元がわざとそうしていると思われるのですが、その理由は、時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」に不慣れな人たちに「有時」という衝撃を与え、「有時」に引き寄せるためには「われを排列して、われこれを見るなり」といった文節的に見える「われ」の在りようが必要だったからです。

「有時」とは、普通は「或る時は」くらいの意味ですが、道元はそれを、「存在(有)」と「時間(時)」がいっしょになったもの、(存在とは時間であり、時間は存在であるという意味で)存在と時間の一体性を表すもの、として使っています。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」時間はもともと存在である、存在とは時間のことである。

塵(ちり)の小片ひとつの中にも世界のすべてが含まれている。「華厳」とはそういう存在論的に輝く世界です。しかし、そういう世界観だけでは、時間論的な「われ」の出現を聞かされたぼくたちの「落ち着きのなさ」は消えないかもしれません。だから、文節的な「われ」と勘違いしそうなくらいの「スーパー華厳的な『われ』」が、ここでは持ち出されたのでしょう。それが「有時」における「文節的なわれ」風の香りの強さにつながっているように思われます。

そういう香りを持ちながら「正法眼蔵」の「われ」は時空を貫きます。「われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(自己に時があるはずである。自己がすでにあるのだから、時が自己を離れて行ってしまうわけがない)」。

過去が現在を呑み込みながら現在を吐き出しているとも考えられますが、「われ」という現在が過去を呑み込み、同時に新たに、現在と過去を吐き出しているのでしょう。

2017年6月 7日 (水)

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2017年6月 6日 (火)

遅い午後

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2017年6月 5日 (月)

緑の中の灯油タンク

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2017年6月 2日 (金)

ドア

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2017年6月 1日 (木)

樹と建物

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2017年5月31日 (水)

樹と建物

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2017年5月30日 (火)

樹と建物と飛行機雲

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2017年5月29日 (月)

樹と建物

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2017年5月26日 (金)

5月の緑

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2017年5月25日 (木)

観音竹

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2017年5月24日 (水)

5月の緑

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2017年5月23日 (火)

白い木の壁

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2017年5月22日 (月)

黄色い夕方の壁

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2017年5月19日 (金)

木の壁

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2017年5月18日 (木)

樹と建物

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2017年5月17日 (水)

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2017年5月16日 (火)

ドア

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2017年5月15日 (月)

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2017年5月12日 (金)

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2017年5月11日 (木)

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2017年5月10日 (水)

歩道の花びら

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2017年5月 9日 (火)

路上の花びら

「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、生あり死あり、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。・・・略・・・しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」(道元「正法眼蔵」<現成公案>)

(あらゆるものがともに区分的・文節的な自己でない時節には、二元対立的なものであるところの、惑いもないし悟りもない、仏もないし衆生もない、生もないし滅もない。・・・略・・・しかし、たとえそうではあっても、やはり、きれいな花は惜しまれつつ散り、そうでない雑草は嫌われつつ生い茂るものである。)

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2017年5月 8日 (月)

「本無華なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。」(道元「正法眼蔵」<空華>)

(花は本来的には空であるとはいっても、その空の花は、今、確かに存在している花でもある。この事情は、目の前の桃の花や李(すもも)の花についても同じであり、目の前の梅の花や柳の花についても同様である。)

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2017年5月 5日 (金)

つた

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2017年5月 4日 (木)

つた

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2017年5月 3日 (水)

昭和10年(1935年)頃に作られた野菜倉庫の壁である。今は使われていない。

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2017年5月 2日 (火)

春の夕方

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2017年5月 1日 (月)

「セロニアス・ヒムセルフ」と「正法眼蔵」

ジャズピアニストであるセルニアス・モンク(1917 – 1982)のたとえば「セロニアス・ヒムセルフ」というピアノソロアルバムを聴いていると、道元(1200 – 1253)の「正法眼蔵」の一節を読んでいるような気分になります。
 
ジャズが好きでもセロニアス・モンクが嫌いなかたは、彼独特の不協和音や彼独自のリズム(リズムのとぎれや乱れ)にうんざりして彼から遠ざかったみたいですが、モンクを好きなかたにとってはそこが彼の魅力の源泉です。道元の「正法眼蔵」のような形而上学的著作物では彼が意識的に作り出す独自の不協和音やリズム感の「前後際断」に頻繁に出会えます。
 
「正法眼蔵」はわかりにくい書物です。禅を含む仏教全般の知識がある程度あるくらいでは歯が立たない。わかりにくさの理由は、おそらく次の二つです。
 
そのひとつは、言葉や用語の定義。「この言葉(この用語)はここではこういう意味で使います」というその定義の仕方(というか使い方)がとても大胆なこと(たとえば「悉有仏性」、これについては後述)。
 
もうひとつは、ある言葉(用語)をある意味で(ある定義で)使ったあと、その同じ言葉(用語)をすぐあとに別の意味で(別の定義で)使うという不協和音的な転調が好きなことです。たとえば、自己。同じ自己でも自分を含む世界を区分しようとする自己とそういう執着から自由になった自己とが同じ自己という言葉で連続し、どちらの自己かは文脈から判断するしかないのですが、文章自体がいわば不協和音の響きを内在させた音楽みたいなものなので、それほど簡単ではありません。
 
後者(二つめの理由)に関してひとつ追加すれば、極端な場合には、たとえば複数の漢字からなる用語(たとえば、古仏心)を説明しながら、説明の後でそれを三つに分解し、そのうちの二つを自由に組み合わせて(たとえば、古心、心古、心仏など)新しい意味を創り出すといったことにも躊躇がありません。読者にとっては、新たな不協和音の登場です。
 
「一切衆生悉有仏性」というぼくたちにとって比較的おなじみの表現は、通常は「一切衆生、悉く(ことごとく)仏性(ぶっしょう)有り」(すべての存在に仏性―如来蔵とも呼ばれている-がある)と読み、仏性の有無を説明する表現ということになっていますが、道元はそう読まない。彼の形而上学がそう読ませない。「悉有(しつう)は仏性なり」と強引な(つまり高校の漢文の授業だったら教師から間違いだといわれるような)読み方をします。
 
人も草木も石も山も風もすべての存在は、仏性が、そのまま、それぞれにそれぞれの瞬間に顕れたものであるという「空」の構造を道元風に表現したものが「悉有(しつう)は仏性なり」です。ちなみに、仏教という絶対者を想定しない形而上的な思想においては仏性とは真理(曖昧な言葉ですが)のことです。別の形而上的な表現だと「空(くう)」とも云う。
 
何もないところから、人も草木も石も山も雲もすべての存在が顕現します(なにもないのでその意味では空であり無です、しかし、顕現するということは、それらの潜在態がすべてそこにあるので、その意味では有であり空です)。
 
「般若心経」という短いけれどもとても哲学的なお経があります。そのお経はこの存在の往復運動(循環運動)のことを「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とまとめました。「悉有(しつう)は仏性なり」は、仏性を軸にそのまとめをさらに道元流に凝縮したものと云えます。
 
正法眼蔵のある章だけを読み返し、そのあとセロニアス・モンクの好きなピアノソロアルバムの好きな曲だけを数曲聴き返すというのもけっこう楽しい作業です。順番は逆でも構わない。


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